(ショックを受けると色彩の感覚まで失う)

定期健診の結果がかなり遅れて職場に届きました。長形3号のいつもの封筒ではなく、A4判の封筒で厚みがありました。

17年前の3月のことでした。

開封すると右肺の図の下部が黒く塗りつぶされていました。

「非結核性の陰影あり」

所見とともに精密検査を受けるようにと記載されていました。

非結核性の陰影とはいったい何なのか。結核ではないということはわかる。では、何なのか。

タバコはいまだかつて1本も吸ったことがない。まさか肺がんなのか。

「肺がん」。その言葉が頭の中でこだまし、消えません。どんどん増幅していきました。

父は血液のがんといわれる白血病で、母は卵巣がんで、祖父は肺がんで亡くなっています。

ついに私もか、とひどく落胆しました。

健診結果の封筒が届いた日は3歳になる長男の誕生日で、仕事帰りにプレゼントを買う予定でした。

結局、プレゼントは買い与えたようなのですが、どの店に寄って、何を買ったのか、いまだに思い出せないままです。

相当に動揺し、混乱していたのでしょう。

両親がかつて入院していた同じ病院で、肺がんの疑いで、今度は私自身の検査が始まりました。

第2話へつづく)


(タイでよく鴨肉を食していました)

(第9話からつづく)

第10話をもってエピローグとしたいと思います。「タイからカナダまで」は19歳から29歳までの出来事を綴ったものです。

19歳のときに八王子のラーメン店でタイ保健省の職員と出逢い、その2年後にタイに留学。

じつはラーメン店で出逢ったタイ人はタイの元首相の息子さんで、びっくり。

元首相に推薦状を書いてもらったものの、両親の病によりタイの大学院への進学は断念し帰郷。

免許を取るために通っていた自動車学校で不思議なおじさんと出逢い、語学の勉強を再開。

生命保険会社に地元採用で就職。保険会社に籍を置きながらお得意様であった電子部品会社にタイ語の通訳で数か月勤務。

その後、市役所に入庁。タイの行政機関の視察が相次ぐ中、5年目のときにカナダのモントリオール大学に派遣留学。29歳のときでした。

なお、モントリオール大学との交換留学制度は私が戻って来た年に廃止が決まり、私ともう一人が行っただけで終了しました。

ところで、東日本大震災が発生した際、ラーメン店で出逢ったタイの知人は私の家族のことを心配し、バンコクへ避難するよう何度も連絡をくれました。

震災の翌年、息子を連れてバンコクへ知人に御礼の意義を込めて訪れました。

「約束通り、子どもを連れて来ましたよ」と。

「タイからカナダまで」のシリーズはこれをもって完結とします。長らくご愛読くださり、ありがとうございます。

次なる30歳から40歳は、「病から病へ」と題し、いずれまた連載物を綴りたいと思います。

33歳のときに肺がんの疑いを受けての検査の日々、40歳のときはうつ病に悩まされました。

生きていればいろいろありますね。

(完)


(翼よ、折れないでおくれ)

(第8話からつづく)

モントリオール大学はカナダ東部のケベック州にあります。フランス語系の大学としてはパリ大学についで世界2番目の規模。

アジアに関する研究が盛んで附属の東アジア研究センターには日本語科も設置されています。

なぜそのような大学が日本の市役所と交流協定を結んだのか。

じつはすでにNTTなど日本の企業に大学から研究生を派遣していた実績があったそうです。大学としては、地方自治体にも学生を派遣したいと考えました。

大学側が相談した相手が私の住む地域一帯を江戸期直前まで治めていた領主の末裔の23代目当主夫人だったのです。

日加交流の第一人者である夫人は思案しました。江戸期に転封(てんぽう)となった地の秋田県内の町と交流させてはどうか、と。

結局、自治体の規模などを考慮して当時の市長の理解も得て、私の働く市役所と交流することになったというのです。

当初はモントリオール大学の研究生を受け入れるだけの話だったそうで、後に市職員も派遣する相互交流になりました。

出発前、市の職員研修所で打合せをしました。

「何をしてくればいいんですか。フランス語系の大学ですよね。私、フランス語はまったくできません」

「そのフランス語系の学生で英語が苦手な人たちが通う英語コースがあるそうだ。社会人向けの夜間コースに行くことになる」

「英語の不得意なフランス語系の学生...。そうなんですか。私、寒いところが苦手なんですけど大丈夫でしょうか」

「とにかく1年間頑張ってきてほしい。戻ってきてから通訳にするつもりはないから伸び伸びと自由にやりたいことをやってきなさい」

お腹に初めての子を宿した身重の妻を残して、いそいそとカナダに旅立ちました。

カナダでは出産の際、夫も分娩室に入るのだという。出産に立ち会わないどころか、帰国もしない私は現地の人にひどい夫だといわれました。

私は胸を張っていい返してやりました。

「これがジャパニーズ・ビジネスマンだ」と。

ワインの味と流暢なフランス語「私はフランス語が話せません」を覚えて1年後に帰国。零下27度という貴重な経験をしました。

帰宅すると息子もしっかり育っていました。

その息子は今月20歳を迎えます。ただいまのこの時間、カンボジアのシェリムアップに滞在中。

何をしているのかはわかりません。

(第10話 エピローグへつづく)


(楢葉町天神岬から太平洋を望む)

第7話からつづく)

前号で「君、1年間、カナダに行ってみないか」と職場の他部署の課長から話があったことを述べました。そのときから時計を半年ほど戻します。

妻とともに私はタイ・バンコクを訪れました。バンコク郊外の川沿いのひなびたレストランでタイ保健省の知人と再会。

大学院への留学を断念し、5年前にバンコクを離れるときにその知人に「新婚旅行でタイにまたいっらしゃい」と励ましを受けました(註 第3話)。

私はその約束を果たすためにタイを訪れたことを伝えました。そして、両親が亡くなってから現在に至るまでのことを認(したた)めた手紙を渡しました。

読み終えると、知人は私の目を見つめ、ぎゅっと私の手を力強く、しかも長い時間、握ってくれました。

「わかったよ。大変だったね」

そんなメッセージが手の温もりから伝わってきました。心の中からなにか熱いものがこみ上げてきました。

「再び約束をしよう。君に子どもができたら、また家族でタイにいらっしゃい」

「わかりました。また参ります」

さて、突然、他部署の課長から話のあったカナダ行きの件に戻します。

「カナダのモントリオール大学とうちの市役所が交流協定を結ぶことになったんだけど、こちからも職員を派遣することになったんだ」

「海外の大学と市役所が交流するんですか。珍しいですね」

「それで、君はどうかねと思って。英語を勉強しているよね」

「あ、はい」

自動車学校でドイツ留学を目指しているおじさん(註 第4話)に激励されて以来、私はアメリカ人の英語塾に毎週通っていました。

しかし、あえて秘密にしていたわけではないものの、職場には英語塾のことは誰にも話していませんでした。

なぜ、英語を勉強していることを知っているのだろう。身上調査をされていたのだろうか。

それはともかく、カナダのモントリオール大学に行ってみないかとの誘いの声が頭の中で何度もこだまして離れません。

またもや海の向こうの躍動感が蘇ってきました。

第9話へつづく)


(市役所の隣の公園)

第6話からつづく)

私が市役所に入庁する2年前に父は他界。がんを患い、父と同じ病院で治療していた母は家に戻り、療養していました。

安定した就職先の代表格である市役所の職員となったことを母はことのほか喜んでくれました。

母の卵巣がんはステージ4(末期)でした。病巣を摘出後、母は自らの意思で退院。肝臓や他の臓器にも転移していましたが、西洋医学での治療をやめました。

食事は玄米食や粗食を摂るように変わりました。温熱療法というのでしょうか。ビワの葉を身体に当てて、もぐさで温めるといったことも試していました。

そんなこともあって、ビワの葉を見るといまでも物悲しい気持ちになります。

そして、母は、ある日突然「自分はやりたいことをやる」と宣言。自宅でカラオケ教室を開くとともに旅行や登山を始めました。

そんな母の変わりように驚きつつ、不安も覚える中、私は最初に配属となった福祉事務所でケースワーカーとしての仕事に慣れる毎日でした。

そのころの私の心は、市役所に入れた喜びと、もうこれで海外には行けないのだ。そういったあきらめに似た感情が入り混じっていました。

入庁して半年ほど経ったころのことです。

当時の地域振興整備公団常磐支部からタイ語の通訳の依頼を受けました。

タイ工業省の視察団が工業団地と産業廃棄物処分場を視察するため来市するというのです。事前に資料を手に入れて必死に予習しました。

その後にも、不思議なことにバンコク市教育委員会、タイ農業・協同組合省といったタイの行政機関が次々と来市。市長表敬訪問時の通訳まで務めました。

それぞれ個別の事情で視察地として選んできたというのです。不思議なこともあるものだと思いました。

自動車学校で出会った、ドイツ留学を目指しているおじさんの言葉(註 第4話)が蘇りました。

「夢をあきらめてはいけない」と。

上司からは「タイからたくさんお客さんが来るけど、あんたが裏で糸を引いてんじゃないのげ」といわれました。

自宅療養していた母は一時、とても元気になりました。が、徐々にがんに蝕まれ、発症から4年後に亡くなりました。

「やりたいことはすべてやったよ」といって霊山に旅立ったことが救いです。

市役所で働き始めて5年目の秋。面識のない他の部署の課長が私のところに来ました。話があるという。

「君、1年間、カナダに行ってみないか」

第8話へつづく)


(知人宅の庭先)

第5話からつづく)

公務員試験について大阪府庁職員を目指す友人に相談。本気でというよりは、近況報告を兼ねてといった軽い気持ちでした。

彼の出身は大阪です。大学を卒業後、別な大学の大学院で環境学を学んでいました。つくば市にある、彼の寮に遊びに行ったこともあります。

「あのさ、地元の市役所を受けようと思っているんだけど、いま仕事しているし、勉強していないんだよね。いまからやっても無理だよね」

「もったいないよ。あきらめちゃだめだよ」

友人は語気を強めました。

「んだって、あと3か月後だよ。間に合わないよ。いまから勉強できるものってあるのかな」

「そうだね。憲法と経済学をやりなよ。公務員試験で憲法は根幹だよ。経済学も必須だね」

「憲法と経済学ねぇ。わかったよ」

文学部社会学科という、およそ法律とも経済とも縁のない学科を卒業した私。そもそも公務員など目指していなかったものなぁ、と嘆息しました。

試験当日、一般教養は意外にも解けました。これには理由があります。

当時、昼は生命保険の営業、夜は塾の講師を務めていました。

塾の社長が保険のお得意様で、講師が不足して困っていると相談を受けたことがきっかけです。

私は生徒たちからは「ジャカルタ先生」というあだ名で呼ばれていました。

塾の経営も転換期を迎え、塾の名称についても助言を求められました。

「社長の名前を冠した、『○○進学塾』とするのはいかがでしょう」

「おお、いいね。そうしよう。せっかくだから文字も誰かに書いてほしいね」

「書道をやっている後輩がいますから、彼に書いてもらいましょう」

というわけで、夜の仕事で私は高校進学を目指すクラスを受け持ち、全教科を教えることになりました。

教えることは、すなわち学ぶこと。高校入試のレベルを侮(あなど)るべからず。

中学3年間の学びを究めれば、公務員試験の一般教養に耐えうると私は確信します。

現在、社長の名前を冠した進学塾は市内各所に教室を展開しています。後輩の書いた墨痕鮮やかな文字とともに。

沖縄で国語の教員をしている後輩に一度見てほしいと願っています。

大阪の友人も私も翌年、公務員となりました。でも、私の心は晴れ渡っていたわけではありません。

第7話へつづく)


(電線の張力に負けず屹立する鉄塔)

(第4話からつづく)

生命保険の営業職にありながら上司の命により、電子部品の製造工場でタイ語の通訳をすることになりました。

たまたま保険会社のお得意様であったこと、タイに製造拠点が作られ、研修生が来ることになったこと。この二つの偶然が重なったことによるものでした。

2か月に渡るタイからの研修生受入が終わるころ、電子部品会社の総務部長から通訳の謝礼の申し出がありました。

いただくべきかどうか。営業所の上司に相談しました。

「もらうかどうかは君次第だよ。営業所としてはどちらでもかまわない。ところで、あの小さな電子部品は1個いくらで売れるか知っている?」

「おそらく数円から数十円だと思います」

「そうだね。その売上から利益を出して、君への謝礼の数万円を捻出するためにはいったいどのくらい製品を作るのだろう」

「相当な数だと思います。数千個以上でしょう。製造現場は薄利多売の世界です」

「その通り。ここで謝礼をもらえば、君とその企業との関係は終わる。しかし、謝礼を受け取らなければ、先方にとっては大変に有難いことだ。君との関係は永続的なものになるだろう」

「わかりました」

私は辞退することにしました。

後日、電子部品会社の専務から上司に感謝の電話があったと聞きました。相当の金額を用意しようとしていたようです。

当時の総務部長さんは現在、東京で自動車部品メーカーの会社の役員を務めています。いまもってお酒を酌み交わす仲です。

そして、昨年、私を頼って、当市に進出を希望する企業の経営者を連れて来訪しました。

四半世紀経ってもつながりが続いています。

さて、地元の市役所に勤める先輩から声をかけられました。市役所に勤めてみないか、と。

役所に対しての私のイメージは黒澤明監督の映画「生きる」に登場する市民課長でした。

くすんだ、覇気のない、ただ判子を押すだけの毎日。肘当てとずれた黒縁メガネ。

先輩はそんな私に対して軽い気持ちでいいからと受験を勧めます。

「とにかく受けるだけ受けてみて」

「ぜんぜん勉強していないですし...」

試験日まで数か月。さあ、どうしよう。

大阪府庁を受験する予定の同級生に電話しました。

(第6話へつづく)


(塩屋埼灯台)

(第3話からつづく)

自動車学校で私に声をかけてくれたおじさん。かつて出版会社で英語辞書の編纂を担当していたという。

私もその英語辞書にお世話になったものです。

おじさんが語り出しました。

「いまは貿易会社にいて、これまで自動車免許を取る機会がなかったので教習に通っています」

「私は大学を卒業したんですけど、留学の夢があって、仕事はしていません。地元に戻って来て両親の看病をしながら、免許を取りに来ました」

「語学の勉強だけは断じてあきらめちゃいけないですよ。私はヨーロッパの言語はだいたいわかります。いまの会社を退職したらドイツのハイデルベルク大学の大学院に行こうと思っています」

「そうなんですか。すごいですね!」

「毎朝早く起きてドイツ語の勉強をしています。10個単語を覚えても7つか8つは忘れてしまうんです」

その年齢ではいたしかたないだろうなぁと心の中では思いました。

「でも、2つか3つは覚えられんです。それを積み重ねています。君は若いんだから断じてあきらめちゃいけない」

私はその気迫に心を揺さぶられました。

その年に父が亡くなり、その1週間後、私は地元採用で生命保険のセールスの仕事を始めました。

契約が取れない日々が続きました。私は塩屋埼灯台の見える海岸に車を止めて海を眺めていました。そして、心の中で叫びました。

「いつかまたこの太平洋を越えてやる」と。

ある日、営業所長に呼び出されました。営業成績のことかもしれない。

「会社のお得意様である市内の電子部品メーカーがタイにプラントを作り、タイの研修生をこちらに呼ぶそうだ。通訳が見つからず困っているという。君、営業の仕事はしなくていいので、通訳に行ってほしい」

海の向こうの躍動感が蘇ってきました。

(第5話へつづく)


(天心記念五浦美術館から太平洋を望む)

(第2話からつづく)

母は検査の結果、卵巣がんだとわかりました。元首相の推薦状まで手にしていた私。大学院進学は決まったようなものでした。

進学を断念し日本に帰国することにしました。

八王子のラーメン店で出逢った、医師でもある、タイ保健省の職員の方に事情を話しました。

留学中、ひどい下痢に悩まされたときには保健省から薬を持って駆けつけてくださった心優しい方です。

私は正直にいいました。

「せっかくお父様に推薦状を書いていただいたのですが両親が重い病にかかり、帰国せざるを得ません」

「わかりました。残念だけどやむを得ない。では、約束をしよう。新婚旅行でタイにまたいっらしゃい。待っていますよ」

タイを離れる日が近づき、好きだった歯学部の女子学生に思い切って告白しました。

答えは「友達でいましょう」でした。

タイシルクの布をプレゼントしたときには、後日、それで仕立てた服を着てきた彼女。脈はあったような気がしていました。

「泣きっ面に蜂」--- このことわざがこだましました。

日本に帰国すると父も母も同じ病院に伏していました。

そのころ、国家公務員試験に合格した同郷の友人と連絡を取り合いました。京都から一時帰郷していた友人と五浦で会うことにしました。

早春の五浦の海はきらきらと輝いていました。

「国家公務員一種試験に合格したんだけど、単位が足りなくて卒業できないんだよ」

「中退では省庁には入れないの?」

「労働省はだめなんだよ。外務省とは違うんだよね」

私たちは黙って海を眺めていました。

さて、私は両親の看病をしながら、車の免許を取ろうと、自動車学校に通い始めました。

ある日、自動車学校で60代前半の男性に声をかけられました。

「君は若いけど、昼間から自動車学校に通って、何をしているの」

「じつは...」

このあとこのおじさんに私は力強い励ましを受けることになるのです。

(第4話につづく)


(郡山の湖南町)

(第1話から)

「そうです。父は首相を務めていました」

寮に戻ってから調べると大学の学長を務めたあと最高裁判所長官になり、その後第12代タイ首相を務めていたことを知りました。

民主化運動のときに首相となりタイの政界に強い影響力を持っている人物として知られていました。

私が留学していた当時、枢密院議長の職にありました。

「喉から手が出るほど」とはこのこと。

私はこのお父様にぜひ私の大学院進学のための推薦状を書いてほしいと思いました。

が、頼むことはしませんでした。なぜなら、東京のラーメン店で偶然出逢い培った友情を自己の利益のために使うのはためらわれたからでした。

タイの名門大学でもあり、当時外国人の大学院進学は少ない状況でした。タイ語は難しく、進学に向けて勉強するものの思い悩む日々が続きました。

タイ保健省の職員の方は私のことをご自宅に招いてくださったり、地方にある奥様の実家に旅行に連れて行ってくださったりするなど、私のことを可愛がってくれました。

「君が本気で大学院に行きたいのであれば父に推薦状を書いてもらうようお願いしてあげようか」

「ぜひお願いします」

思っても見ない申し出に私は感激しました。お父様とお目にかかり、記念撮影もし、推薦状まで書いてくださいました。

進学したい大学の元学長にして元首相。しかも、現職の枢密院議長。

入学試験がどんな点数でも合格する自信がありました。

と、そんなとき日本の実家から電話がありました。

白血病の父の病状が思わしくないうえ、母も具合が悪く、私に帰国してほしいと。

(第3話につづく)


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