(冬の寒さがないと桜は咲かない)

聴き取る力が落ちてきている。最近、つくづく思うようになりました。以前、五十音の単音の聴き取り検査をした際、半分近く間違えました。

子どものころ母に聞いた話によると、私は3歳まで発話をしなかったらしい。いわゆる「赤ちゃん言葉」を発しないまま成長したという。

絵本や図鑑などを通して母が強制的に私に覚えさせた言葉は、「たいよう(太陽)」や「ちきゅう(地球)」、「つき(月)」、「さかな(魚)」であったことは幼子心にも記憶しています。

まるで外国人が日本語を覚えるようにして単語を覚えたようです。

聴き取りの遅れは言語の発達に影響を及ぼします。小学低学年で苦労したのは読み書きでした。

漢字はおろか、ひらがなも書けませんでした。「ち」と「さ」の違いがわからず一人涙ぐんでいた私。どこがどう違うのかがわからないのです。

今になって思います。私は一種の学習障害(LD)ではなかったのか、と。

「ことばとひびきの教室」に小学校・中学校の9年間、通い続けました。私の学習障害を助けてくれたのはまぎれもなく通級教室でした。

先日、特別支援教育関係の会議にスタッフとともに出席する機会がありました。

「LDのお子さんは自分が勉強が遅れているということ自体がわからない。そして担任の先生も含め周りもわからない」

「そこが問題です。周りが気づいてあげる必要があります。そのままにしておくと次第に授業についていけなくなり不登校になっていきます」

「小中はまだ連携が取れているからいいんです。高校に進学した際、特別な支援、配慮が必要な子であることの情報が学校に伝わらない」

目の前の一人の児童生徒のために何とかしてあげたい。

特別支援教育担当の先生が熱く語る姿を見て私は思いました。

おそらくは私自身が子どものときもこのような先生がいて目に見えないところで私たちをサポートしてくれていたに違いない、と。

「ち」と「さ」の切ない思い出とともに何だか胸に込み上げるものがありました。もしかすると、ただの逆流性食道炎のせいかもしれませんが。


(エレベーターの「換気」ボタン)

とあるエレベーターメーカーの企画会議。役員も出席しての真剣な議論が続きます。テーマは放屁対策。

「エレベーター使用上のクレームに以前から放屁問題があることはご承知かと思います。しかし、わが社は放置してきた経緯があります」

「大きな問題なのかね」

「クレーム主のほとんどが女性からです」

「どういうことか説明してくれんかね」

「はい。われわれと同年代の中年男性の約2割は一人でエレベーターに乗った際、放屁することがわかっています」

「そんな程度かね。わしはよくやるぞ。オヤジ連中は密閉空間に弱いってことだ」

「わかります。わかります。狭い本屋さんでも同じ現象が起きます」

「さて、本題に戻します。このオヤジ連中の、あっ失礼、中年男性の放った残り香によって一次被害に加え二次被害が生じていることをご存じでしょうか」

「中年男性が放屁したあとに女性が単独でエレベーターに乗る確率はわが社の推計によると10パーセント未満であるとされています。決して高くはありません。が、無視できる数値でもないと言えます」

「放屁後の空気汚染度は測ったのかね。次にドアが開けば攪拌され稀釈されるだろうに」

「この動画をご覧ください」

屁に模した色付きのガスをエレベーター内に放出。エレベーターのドアの開閉と薄まり具合を観察した実験の模様が流れます。

「ご覧のように想像以上にガスが室内に滞留していることがわかります。女性はまず放屁された室内で一次被害に遭います。『うっクサっ』と思った次の瞬間、次の階で別な人が乗り込み、そこで二次元被害を受けることになるのです」

「要するに犯人にされてしまうということだな」

「そういうことです。放屁の主犯格とされてしまうのです。オヤジの悪習(悪臭)を変えさせることは困難でありますので、女性の救済策を考えました」

「それは何かね」

「はい。企画開発部で考案したのが『換気ボタン』です。他社にはまだない機能です。ボタンを押せば瞬時に台風並みの900ヘクトパスカルまで減圧して急速脱臭します」

以上は筆者の妄想です。

そんなことを想像しながら9階から一人で乗り込み、途中で換気ボタンを押してみました。これで安心です。


(福島市のカフェ「モモノキ」。窓外は雪に覆われています)

珍しく風邪をこじらせました。若いころはよく風邪を引き、寝込むこともありました。長じて40歳を超えたころからめったに風邪を引かなくなりました。

馬鹿になったのだと思いました。

今回、風邪が治りにくい最大の原因は、例年にない厳しい寒気に加え、職場もまた寒いことにあります。

耐震化工事のため空調が切れているのです。北側の窓際にいる私は特に寒気(さむけ)を感じます。

小用のとき放出の瞬間、背後霊が憑依(ひょうい)したのではないかと思うほど、ぶるっと背中に悪寒が走ります。これは男のみの現象なのでしょうか。

さて、人は比較の中で生きている。最近、そう思うようになりました。

半年間は冬と言っても過言ではないモントリオールの冬。ハロウィンのころに雪が降り始めます。厳冬期の1月下旬あたりから氷点下10度から20度の日々が続きます。

滞在中の最低気温は氷点下27度でした。息を吸うと鼻毛がたちまち凍りました。

夜、氷点下20度以下のバス停で30分も立って待っていると新田次郎の作品の数々のシーンが蘇ってきます。

『孤高の人』や『八甲田山死の彷徨』などの遭難のシーンとわが身の置かれている状況とを重ねます。

最高気温が氷点下10度、20度の日々が続く中、たまたま最高気温が0度近くまで上がったことがありました。

「なんて暖かいんだ。春のようだ」

マフラーを取りました。そして、耐寒温度氷点下30度の当地で購入した防寒着を思わず脱いでしまいました。

不思議なものです。毎日、氷点下の中で過ごしていると0度を暖かいと感じることができるものなのです。

幸せというものも多分に比較考量の世界で感じるものなのだと思います。苦味という“人生のにがり”も幸福を感じるための必須要素なのでしょう。

ただし、比較と言っても他人との比較ではなく、自分の経験において行うことが肝要です。

というわけで、苦味を味わえることも大事なことなのだと言い聞かせながら、風邪薬を飲みました。


(いわき芸術文化交流館アリオス。しゃがむと世界が違って見える)

「平和と親善を目的とする五輪に、戦争と対決を招く空母が出場できる種目はない」--- 北朝鮮は祖国平和統一委員会のウェブサイトに米空母を牽制する論評を掲載したという(2018.1.13ソウル時事)。

なかなか上手いこと言うなと思いました。人は言葉の応酬をしている間はまだ後戻りできる余裕があります。いよいよのとき人は寡黙になります。

この北朝鮮の論評に対して、いずれにしても米空母は「金」を狙っている、とネット上でコメントした人がいました。これまた当意即妙な返しだと感じ入りました。

服を買いにユニクロに行きました。各コーナーにはモデルが着こなしている写真が貼られています。どれも素敵です。じつにカッコいい。

馬子(まご)にも衣装。公家にも襤褸(つづれ)。

そうは言うけれど、それは違うなと思いました。確かに人は着る服で立派にもなり、みすぼらしくもなる。そういった一面があることは否定しません。

けれども、カッコいいモデルが着れば何を着ても様になるのです。仮に蓑(みの)を着せたとしても、モデルはカッコいいはず。むしろワイルドさが際立つことでしょう。

私が蓑を着たらどうなるか。

「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」(後拾遺集)を彷彿とさせるひもじさ溢れる世界が現出すること間違いありません。

ですから、モデルが着ている写真を見ていい服だと思って買ったら、メーカーの思う壺。まるでスーパーの試食コーナーで食べた際の感激と食卓での落胆にも似た悲劇を味わうことになります。

というわけで、ふと気がつくと日曜日の夜が更けてきました。明日は月曜日。そう思うだけで気が滅入ります。

蓑を着た夢でも見てみましょう。なんだか無性に蓑が着たくなってきました。


(冬の猪苗代)

とにかく冬が嫌い。厳冬の今ごろが特に苦手です。理由は手先が冷えるからです。本当に冷たい。切なくなるほど冷え切っています。私は変温動物ではないかと思う。

日本は日常のあいさつにおいて握手を交わさない。だからまだいい。20年前住んでいたカナダではよく握手を交わしました。抱擁もし頬にキスもします。

抱擁やキスは最初戸惑いながらも慣れました。でも、握手がいやでした。皆、私の手の冷たさに驚くのです。ハッと顔に表します。

冬の握手の悪弊から逃れた今も手先が冷たいことに変わりありません。恥辱を忍びながら、五十男が職場で指先の出ている手袋をはめています。

なんとかならないのか。懸賞金を出して私の手先の冷えを改善する方法を教示してほしいと思うほどです。

直接的な原因は血液が手先に行き渡っていないことにあるらしい。その根本的な原因はわからない。

いろいろ対策を調べていくと対症療法ではあるものの、お腹を温めると手先が冷えが改善されるという。どういうことなのでしょうか。

血液が行く場所には優先順位があるらしい。もともと血のめぐりが悪い私。血液は大事な内臓を冷やさないように内臓に集結するようです。

その内臓をカイロで温めてやるのです。そうすれば血液を集結させる必要がないと判断してくれるはずです。誰が判断するのか不明ではありますが。

やってみました。これは不思議。じんわりと手が温かくなりました。腹巻もいいかもしれないと思いました。

小さな、小さな発見でした。仮説が当たると嬉しいものですね。これで宝くじも当たれば懐も温かくなるのですが...。


(五浦の六角堂)

「業務は型にはめる。発想は型にはめない」 --- 仙台で開催されたある勉強会。発言者の言葉が心に残っています。

10人ほどの事例発表でした。誰の言葉なのか思い出せません。記憶力が弱ってきました。これからは発言者の名前も留めておくようにします。

「発想は型にはめない」。これは難しそうで意外に容易です。頭を柔らかくさえすればよい。難しいのは「業務は型にはめる」方です。

ルール作りこそ勝者の道。型にはめた方が勝ちです。

ruleにerを付けたrulerという英単語は文字通り支配者を意味します。

インターネットのURLに国名が表記されていないのが米国です。

日本国内の場合、jpドメインが付されます。しかし、米国では、企業であれば.comとなり、政府機関であれば.gov、非営利組織であれば.orgです。国名がありません。

まさにルールを持つ者“ルーラー”のなせるわざです。

英語という言語も言語として優れているかどうかではなく、ルーラーの言語であるがゆえに国際社会の支配言語となっていると言えます。

その意味で中国文化や中国語の教育宣伝を行う公的機関「孔子学院」の設置を中国政府が世界各地で進めていることは、もっと関心を持っていいかもしれません。

現在、世界各地に約500校あります。2020年までに世界中に1000か所の孔子学院と孔子学級を中国政府は設置しようとしているという。日本国内にもあります。

なお、孔子学院は儒教教育とは関係ありません。

閑話休題。

NHKスペシャル「激変する世界ビジネス“脱炭素革命”の衝撃」をめぐってエネルギー産業に携わる方と語りました。

番組の概要は次の通り。

「世界に衝撃を与えたトランプ大統領の『パリ協定』脱退。にもかかわらず世界のビジネス界は、今世紀後半に二酸化炭素の排出量を実質ゼロにする“脱炭素革命”に向けて大激変し、その動きは止まらない。なぜか?」

「この動きを決定づけたのは、世界最大の二酸化炭素排出国、中国が“環境大国”を目指し始めたこと」

「11月にドイツ・ボンで開かれたCOP23には、脱退したはずのアメリカや、エコ文明を打ち出し“脱炭素”のリーダーをめざす中国など世界中のビジネスマンが集結!だが日本では再エネ普及も進まずトレンドに乗り遅れている」(NHKウェブサイト)

「去年の12月のNHKスペシャル、脱炭素革命をご覧になりましたか」と私。

「たかしに番組の言うとおりなんです。そうなんですが、東南アジアなどの発展途上国においてはまだ火力が必要なんです。すぐに脱炭素というわけにはいかない」

番組を見て私が感じたことは、「地球にやさしい」とか「地球温暖化を心配して」といった次元ではなく、ビッグビジネスとして動いている、ということでした。

しかも、間違いなく中国が“脱炭素革命”のルーラーになろうとしているということです。

脱炭素という「型」を誰がどのようにはめるのか。今まさに鎬(しのぎ)を削る戦いが始まった、と思いました。

型にはめた方が勝ちです。ルール作りこそ勝者の道。


(藍の波を立てる鮫川)

だんだんと気持ちが柔(やわ)になってきた。そう思います。以前は抗(あらが)う精神がありました。ナイフのようにとがっていました。

30年来のなじみの理髪店に行くたびに言われます。

「最近ずいぶんと髪の毛が柔らかくなってきましたよね。特に頭頂部がほら」

頭頂部と太陽は直視できない、とはだいこんくんの箴言(しんげん)です。

頭髪の柔らかさと心の強靭性は相関関係にあるのでしょうか。頭頂部も心も脆弱性を示し始めました。

以前、「総ぐるみ」という言葉に抵抗がありました。特に「◯◯総ぐるみ運動」といった表現が苦手でした。

“総ぐらまれたくない”と思ったものでした。「総ぐるみ」とは、思考停止状態で行われる集団行動に思えたのです。是非を論ぜずお上や周囲から言われるままに行う行為に見えたのです。

そして何よりも、「総ぐるみ」に否と意思表示をするマイノリティに対して冷たさを感じたものです。少数派を排除する運動に思えたのです。

議論して皆が納得しての総ぐるみ運動であるならばいいのです。総ぐるみで行うことそのものに意義を見出す思考様式に嫌悪感を持っていました。

杉本良夫氏は言います。

「『日本人をやめる』というのは、広い意味では、日本文化のなかにある束縛的なしきたり、日本社会の非民主的な枠組み、日本人の日常生活を支配する非人間的な構造にアカンベーをする人間になるということである」(杉本良夫著『日本人をやめる方法』)

さらに氏はその「日本人をやめる」ことの厳しさについて次のように述べています。

「地球時代にあって、日本と関わりあいながら、なにがしかの社会変革を志す人たちにとって、『闘争』と『逃走』は盾の両面である」と。

上述の引用中の「日本と」を「地域と」に置き換えてもよいでしょう。

というわけで、美味しい干し芋を食べたい、濃厚な和栗モンブランケーキを食べたい、ぷりっぷりの海老チリを食べたい、等々の欲求に抗し難く、人間が柔(やわ)になってきました。

闘争など無縁となり、もはや逃走を超え、遁走(とんそう)するばかりです。

総ぐるみの軍門に下るとそれなりに楽だということに気づいた今日この頃のつぶやきでした。


(海老チリを作ってみました)

「ふるさとは遠きにありて思ふもの」 --- 室生犀星の抒情小曲集の詩句。この抒情は第一に物理的距離があり、そして心理的距離があることを前提としている。そう私は思います。

東南アジアに留学した息子。寮の部屋はWi-Fi環境が整っています。

3人部屋で共同のトイレ、水のシャワーだという。東京で暮らしていたよりは不便な生活になったようです。

たしかに遠くには行きました。が、心理的距離が離れていない。SNSで無料いつでもつながります。動画でも会話ができる。

これはよくないのではないか。やはり「ふるさとは遠きにありて思ふもの」です。

「むかしは」と言うのは避けたいと思いつつ、やっぱり言いたくなるのです。

30年前の私のタイ留学時代。薄暗い独房のような部屋。ヤモリと巨大ゴキブリとの共生。もちろん水のシャワー。電話なし。

実家との連絡手段は手紙でした。5日間程度の“時差”が心を豊かにしたような気がします。赤と青のストライプに囲まれたエアメールの封筒が届くとき、心躍りました。

さだまさしの「案山子」の歌詞のような母の文面。思えば遠くに来たもんだと思いました。

人生は「いないいないばあ」の姿勢が必要なのではないか。最近つくづく思います。「いるいるばあ」ではなく「いないいないばあ」というところが深い。

離しつつ、見守っている。あるいは、離れつつ見守る。完全にいないのではない。かといって常時いるのではない。それが「いないいないばあ」なのです。

いつかはいなくなる親という存在。たくさんの「いないいないばあ」のシャワーを浴びた人は親亡きあとも“見守れ感”が心の中に残るような気がします。

というわけで、飛行機の航路をリアルタイムで追跡するアプリを捨てられずにいる私こそ「いないいないばあ」が必要だと思う昨今です。修行が足りません。


(サザコーヒー 大洗店)

「時間の供給は硬直的である。(中略)簡単に消滅し、蓄積もできない。永久に過ぎ去り決して戻らない」(P.F.ドラッカー著『経営者の条件』)

50歳を過ぎ時間の有限性をつとに感じます。コアな部分にこの時間という限りある資源を投入しようと決意しています。

いただいた年賀状を整理します。年賀状はコアな部分の一つだと思うようになりました。

なにせ忙しい年末あるいは年始にはがきに住所を記載し、投函するという作業を行うのですから。有り難いことです。

宛名は手書きですが、住所録はエクセルで管理しています。来年の年賀状に備え、その住所録に時点修正をするのが今ごろの作業となります。

番地が変更となっている場合があります。こちらの転記ミスなのか、あるいは筆界の変更によるものなのか、とにかく修正が必要です。

うっかり名前を間違って記載していることも発見します。あってはならないことです。申し訳ない限りです。

「裕」と「祐」、「己」と「巳」等々、老眼の進行によってますます発見が困難になっています。

以前、配偶者の名前が変わっていることに気づいたこともありました。永久不変はないのです。

住所録には、お子さんの名前も入力しておきます。お会いする機会があったときに話題に出せるように留めておくためです。

「近くにお寄りの際はお声掛けください」「また会いたいですね」

社交儀礼もあるのでしょうけど、添え状に込められた思いを大切にしたい。今年は一つ一つ実現したいと思っています。

もちろん交友関係を広くしていく工夫も大切です。他方で、限りある時間を考えたとき、今ある人間関係を濃くしてみるのも善なるかなと思うのです。

というわけで、本日、約200枚の年賀状を辞書のごとく完璧に五十音順に並べ替えました。畳からテーブルに持っていこうとしたその瞬間、まるで散華(さんげ)の儀式のようにはらはらとはがきが散り落ちていきました。

このやるせなさ、不甲斐なさ、情けなさ。柱に足の小指を打った瞬間に似た気持ちです。

こんなとき私は「大漢和辞典」の編纂途上に起きた空襲による原版焼失事件を思い起こすようにしています。

編纂者は返ってすっきりしたという。より完璧な辞典を作ることができると思った、と。

こちらはたかが200枚です。ファイト一発!


(かわうちの湯にて)

年頭に当たり本年の目標を掲げます。第一に小川のカントたらんとすること。第二に列車の中、待機している間、就寝前に本を読むこと。第三に逆流性食道炎を治すこと。

「小川のカント」については、「時計代わりにされていた私」を参照。

カントは『純粋理性批判』で述べています。「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」と。

リンゴが赤いのはそう見えている人間の側の認識によるものであり、赤い色を認識しないミツバチは赤色とは見ていない。

つまり、認識次第で対象の見え方が異なる。ありのままに見るということは幻想の世界であり、人はみな色眼鏡をかけて物事を見ている。

このような発想の転換をコペルニクス的転回と呼んでいます。

人間は複雑な存在です。半世紀を生きてきたいまだ自分を認識できていません。

さて、オランダ語に由来する「レッテル」。

レッテルを貼ることは対象に対する認識の正確性に誤謬をはらむおそれがある一方で、把握を容易にします。一言で言えば便利です。

「北朝鮮」にどのようなレッテルを貼っているでしょうか。東北人、関西人に対してはどうでしょうか。現職の総理大臣に対してはどうでしょう。

心理的距離が遠くなるほど、私たちは単純なレッテルを貼りたがる傾向があります。

自分の親、配偶者、子どもに対してはどのようなレッテルを貼っているでしょうか。あるいは貼っていないでしょうか。

親しい人にはレッテルは貼らないものです。不要だからです。

さて、コンビニでアルバイトをしている息子が言います。

「お客さんってだいたい同じ物を買いに来るんだよ」

「そうなんだ」

「だから、たとえば、あるおじさんは、いつもタバコはクール・マックス8。心の中で『クール・マックス』って呼んでいるんだ」

ちなみに、「マックス8」はメンソールボール内蔵、メンソールを超強化していることを意味します。8はタール8mgの意。

「そうするとお父さんもレジの人に心の中でレッテル貼りされているのかな」

「そうだよ」

私は馴染みのセブンイレブンで干し芋をよく買います。飲み会のあとはハーゲンダッツのストロベリー、塩気がほしいときはカルビーのポテトチップス限定版。

「干し芋のおじさんが来た。ほんとこの人は干し芋が好きなんだね。顔が赤いときはいつもハーゲンダッツのストロベリー」というようにおそらく認識されているに違いありません。

というわけで、小川のカントたらんとする私であります。店員さんの心の中でいかに呼ばれようとも「干し芋おじさん」を貫く決意を固めたのでありました。


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